僕のピアニッシモ 1

中学に入学したばかりの頃、俺は初めて恋をした。その人は俺より10歳も歳上で、就任してまだ間もない教師だった。先生は放課後、音楽室でよくピアノを弾いていた。鍵盤の上を流れるように、時に跳ねるように踊る指。メロディーに合わせて先生が奏でる、柔らかく優しい歌声。それらにうっとりしながら側に居るのが好きだった。先生は、綺麗な顔をした男だった。自分が性癖を持っているのかどうかは、今でもよく解らない。振り返ると...

僕のピアニッシモ 2

「ユノ、歌が上手いね」「そうかな」「感情を込めて歌ったら、もっと上手になる。そのメロディーに自分なりのイメージを持ってごらん」その言葉を聞いて、いつも瞳を閉じて歌っている先生は、心を込めているのだと思った。俺も心を込めるつもりで、胸に手を当てて目を瞑ってみた。先生の伴奏にのせてそっと歌い始めると、先生も歌い始めた。夕暮れの音楽室に、緩やかな伴奏と綺麗なハーモニーが響いていた。「何で……今更……」目が覚...

僕のピアニッシモ 3

先生の座る車椅子を押しながら、陽のあたる廊下を歩く。柔らかい風が吹くテラスへ出て、先生を車椅子から降ろすと二人でベンチに座った。「ユノ、今年でいくつだ」「24になります」「そうか。随分大人になったな。顔を見れないのが残念だよ」先生は、遠くを見つめながら続けた。「実は……小さい頃から弱視があってね。ゆっくりだけど、成長するにつれて症状が進行してたんだ。暫くは教師をやっていられたけど、限界が来てしまって。...

僕のピアニッシモ 4

朝、出勤途中に車の中でクラシックをかけた。『Chopin』と書かれたCDケースは、かなり年季が入っている。中学の頃に先生の影響で興味を持ち、小遣いで買った物だ。先生と会えなくなってから見るのも聴くのも辛くて、実家の机の中に長い間しまったままだった。先生がよく弾いていたノクターンが、車の中に響く。優しく優雅な戦慄は、まるで先生そのもののようだ。窓の外を流れるビルの隙間から朝日が差し込んで、まだ人も疎らな街を...

僕のピアニッシモ 5

僕はあの日からずっと、暗闇の中で演奏し続けている。この悲しみを誰にも打ち明けられず、ただただ、指先に思いを込めて。力強い表現は、僕には似合わない。暗闇に響いているのは、いつだって弱く頼りない音色達。僕の、愛しきピアニッシモ。小さい頃から音楽が好きだった。晴れて中学の音楽教師として就任した頃。視力の低下は着々と進み、医者には失明の可能性を伝えられていた。これ以上治療が遅れると取り返しがつかなくなる。...